自分探しの旅はいらない

ここ秩父は札所ですけれども、四国のお遍路さんに「じゃあお遍路さんに行って自分探しをします」と向かったり、若い子たちも「自分探しの旅に出ます」などと言っていますが、「自分探しの旅はするな」というのが今回のお話です。

 

自分探しをしてしまうから、訳が分からなくなるのです。

そもそも「自分って何なのか?」という話ではありませんか。

自分を変えるということはどういうことなのでしょうか?

 

私も、本当の自己、本当の自分、そういったことを探さなくてはいけないのではないかと悩みました。

「自分の中にもう1つ別の自分というのがあるのではないか」とか、いろいろなことを考えたのです。

しかし、どうもそうではないようで、それらも全部ひっくるめて自分なのです。

 

皆さんが悩んでいるのは、誰かから何かを言われた心の苦しみ、自分のしたことがすごく悪いことになるのではないかという不安、そういったことに心が揺れ動いているからです。

理想の自分になりたいけれどもなかなかなれない、だから自分を変えたいということになるわけです。

 

私もかつて理想の自分を決めて、それに近づけるように生きたことがあるのですが、そうすると今の自分を否定し始めてしまいます。

「理想の自分になれない私はダメなんだ」と、そこでまた落ち込んでつらくなるのです。

ですから、自分を大きく変えようということで、何か大きな目標や目的を決めたりすると、

かえって苦しくなります。

 

そこで気が付きました。

「じゃあどうやって生きていけばいいんだ、自分を変えるヒントとは一体何なのだ」ということですけれども、これは実は毎日の生活そのものにあるのです。

皆さんも毎朝起きてすることは決まっているでしょう。

私の場合、朝起きたらトイレに行って、その後で顔を洗って歯を磨きます。

その時に自分に必ず「私は大丈夫です」と言い聞かせているのです。

そういう怪しいことを言っているのです(笑)。

 

それから坐禅をします。

最初は短い坐禅でしたが、だんだん慣れてくるとこれが長くなってきて、その後お寺を開けて朝のお勤めをして、それから食事をしてということになります。

これはもうまさにルーティンワークなのですけれども、つまり毎日を送っている習慣が自分を変えていきます。

 

これを無意識でやらないことが大事です。

皆さん無意識にやってしまうのです。

そうではなく、1つ1つを意識するわけです。

坐禅もただ座っていればいいという話ではありません。

瞑想でもいいのですが、5分間の瞑想をするという時に意識しないでいると流れていってしまいます。

きちんと「今はこの時間だ。集中しよう」と意識をするのです。

 

禅宗の本山、曹洞宗には永平寺と總持寺があって、トイレのことを東司(とうす)と言いますが、トイレに入るときにもきちんとお経を唱えるのです。

本山というのは、ただ何となくトイレに入ることはしません。

トイレに入るときにはトイレに入るためのお経を唱えて入るのです。

そして東司(とうす)というのは、最も清浄な場所のうちの1つなのです。

 

三黙道場というのがあって、東司(とうす)と浴司、お風呂と坐禅は静かにしていなくてはいけません。

トイレというのは、最も重要なところの1つなのです。

何気なくしてはダメなのです。

 

それと同じように、洗面には「洗面の巻」という道元さんの教えがあります。

きちんとお経を唱えて、言葉を言って、意識して顔を洗うのです。

なんとなく水をバッと流せばいいという話ではありません。

歯を磨くことにも、口を注ぐというお経があるのです。

それを唱えてやるわけです。

私もなかなかそこまではいっていないのですけれども、意識の上では「じゃあ今日は顔を洗おう」「今日も1日ありがとう」みたいな形で顔を洗っています。

 

ですから、難しいことをしようということではないのです。

毎日皆さんやっているではありませんか。

毎日トイレに行って、顔を洗って、歯を磨くでしょう。

そこを何気なくやらずに意識することが大事なのです。

 

毎日の何気ない習慣をしっかりと行うことで、結果的に自分が変わっていきます。

特におすすめしたい習慣は、瞑想や坐禅です。

坐禅と瞑想はニアリーイコールで少し違うのですけれども、心を静かにする時間を持つという習慣を、ぜひ生活の中に入れてください。

 

そして、そのときに大切なのが、毎日同じ時間にするということなのです。

働いている人は、毎日朝起きる時間は大体決まっているはずですが、特に退職した方は起きる時間や寝る時間が不規則になってしまいます。

実は、これが結構大きく自分に影響を与えます。

 

私なども決まっているようで決まっていないのです。

ずっと寝ていても何も起こらないわけですから、別に休んでいてもいいのです。

しかし、朝起きる時間も夜寝る時間も決まっています。

それに従って生活をしていくことを繰り返していくと、だんだん気付くのです。

同じことなんてひとつも起こらないと。

 

昨日と同じ坐禅はできないのです。

毎日同じ時間に同じことをやっても、同じことは起きません。

毎日新しくて、毎日気付くのです。

そうやって「ああ、そうか」という気付きがどんどん蓄積されていって、いつの間にか変わっているということなのです。

 

ですから、変えようとしなくていいのです。

変えよう変えようと抵抗したり、力を込めたりするから、結局苦しくなってしまうのです。

どういう習慣を持つかが大切なのです。

先ほど言った通り、毎日の習慣の中にたった5分でいいので、心を静かにする習慣を設けてください。

それで人生が、生き方が大きく変わります。

と、私の経験で申しあげます。

 

私も昔は怒りまくって、イライラ、ピリピリして、人を責めまくって、檀家さんからも「この住職は全くどうしようもない」みたいに言われていました。

うちの娘も「家の中はいつも唐辛子が飛び交っていたみたいにピリピリしてた」と言っているぐらいで、僕の半径5mぐらいには誰も来ませんでした。

 

かつての自分というのは、やはり今と違います。

それは、誰かから強制されてこうなったわけではありません。

いろいろなことがあって、いろいろな気付きがあって、いろいろな影響を受けつつ、少しずつそういうことを意識しながら生活していったらこうなったというだけなのです。

「自分を探そう」とか「理想的な自分になろう」とかということを、あえてしないということです。

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