慈眼寺の朝のおつとめ

毎朝、大体6時10分から15分ぐらいになりますと、ライブ配信をしている朝のおつとめが始まります。

「朝のおつとめって何をやってるの?」というご質問いただいたので、それについてお話しいたします。

 

曹洞宗のお寺でおつとめをするときには、曹洞宗が作った「このマニュアルに従ってお経をおつとめしましょう」という「行事規範」に基づいて、御供養の順番が決まっています。

最初におつとめをするのは、仏殿諷経(ぶつでんふぎん)といって、仏教を開いたお釈迦様、曹洞宗を開いた道元禅師様、曹洞宗を広めた瑩山(けいざん)禅師様、そしてお寺の中心になってお祀りしている御本尊様を供養するおつとめをします。

 

読むお経はみんな同じです。

観音経と大悲心陀羅尼(だいひしんだらに)、そして消災妙吉祥陀羅尼(しょうさいみょうきちじょうだらに)という3つのお経を読むわけです。

 

最初はお釈迦様、道元禅師様、瑩山禅師様、そしてこのお寺は聖観音様が御本尊様ですから、その仏様を供養します。

このお寺を守ってくれている守護神を供養し、そしてお檀家さんやたくさんのお参りになった方々が幸せであるように、そしてますます仏教が多くの方々に届きますようにというようなことを願う、そういうおつとめをするわけです。

 

2番目に般若心経を唱えます。

仏教はお釈迦様が開いたのですけれども、お釈迦様にはたくさんのお弟子様がいらっしゃいました。

五百羅漢とか十六羅漢という言葉をよく聞かれると思いますが、埼玉県ですと、寄居の方で五百羅漢をお祀りされています。

羅漢様というのは、お釈迦様がいらっしゃったころに、ずっとそばに付いていたお弟子様方なのです。

そのお弟子様方がいらっしゃったからこそ、仏教は伝わってきているわけですから、その羅漢様を御供養するというわけです。

 

3番目が、参同契(さんどうかい)と宝鏡三昧(ほうきょうざんまい)です。

曹洞宗は禅宗ですから、禅の真髄をまとめた参同契と宝鏡三昧というお経があります。

奇数日には参同契、偶数日には宝鏡三昧を読むわけです。

仏教ではお釈迦様よりも前に仏陀がいたというふうに考えています。

お釈迦様も含めて過去七仏(かこしちぶつ)と言うのですけれども、「過去七仏がお釈迦様に伝わったからこそ仏教になったのだ」という考え方をします。

 

そしてお釈迦様は、仏様の真髄を最初のお弟子様である摩訶迦葉(まかかしょう)に伝え、それが次のお弟子様である阿難さんに伝わりました。

そのようにしてずーっと、このお寺を開いた東雄朔法(とうゆうさくほう)という方の師匠である天光良産(てんこうりょうさん)という人まで伝わったのです。

つまり、仏教を開いた人、仏教を開いた時に支えた人、そして仏教を今まで伝えてきた方々を供養するわけです。

 

その次にまた大悲心陀羅尼というお経を読むのですが、今度は、このお寺を開いた東雄朔法という方から十九世までの、歴代の住職の御供養をいたします。

 

それから、妙法蓮華経如来寿量品偈(みょうほうれんげきょうにょらいじゅりょうほんげ)というお経を唱えります。

お坊さんだけではお寺というのは守れません。

信者さんや檀家さんがいらっしゃって初めて守られているわけですけれども、これで檀家さんのご先祖様の供養をするわけです。

 

これが朝のおつとめとなります。

 

慈眼寺勤行聖典という経本があって、ここにはさまざまなお経が書かれておりますが、下に解説が書いてあります。

この解説を書いたのは私ではありません。

私の大叔父様になる方が「もっとお経をみんなで一緒に読めるように、そして読んだだけではなく、少しでも意味が分かるように」ということで、大まかな意味を書いたわけです。

これをもとに私も朝のおつとめをしております。

 

最初は分からなくていいのです。私も最初は全然分かりませんでした。

子どものことは「なんでこんなの読むんだよ」と思っていたのです。

ところが、毎日読んでいますと「なるほどな。念彼観音力(ねんぴかんのんりき)というのはそういうことだったのかもしれないな」となるわけです。

 

毎日同じお経を読んでいても、毎日同じではありません。

ですから、毎日同じことをしようとしてもできないのです。

例えば参同契を読むと、

「明中に当って暗あり、暗相をもって遇うことなかれ、暗中に当って明あり、明相をもって覩ることなかれ、明暗おのおの相対して、比するに前後の歩みのごとし」

とあるわけですが、ここの解説をしますと長くなりますので、また別の機会にいたします。

 

曹洞宗、臨済宗の朝のおつとめには坐禅があります。

瞑想でも椅子坐禅でもいいのですが、心を静かにして呼吸を整えてからお経を読むと「あ!」という気づきがあるのです。

文字だけでは分からないようなことが「ははあ、もしかしたらそうかもしれないな」と感じるわけです。

 

念彼観音力(ねんぴかんのんりき)を読むと、「観音様を念じた結果、こんな功徳があるよ」というふうにも読み取れるのですが、そうではないかもしれません。

今は漠然としたことを言っていますけれども、観音様のお経についても、またお話をしたいなと思ってます。

 

南無観世音菩薩、この「南無」というのがありがたいなということを最近すごく感じております。

インドではあいさつするときに「ナマステ」と言います。

「ナマステ」というのは、あなた自身の中にあるものを拝んでいるわけですけれども、それと「南無」、基本的には同じです。

「南無」には帰依、「お任せします」というような意味もあります。

 

朝のお参りをしておつとめを見ている方は、私がお焼香した後、布を広げていきなり消えたり現れたりしているのを見ているかもしれません。

あれは何をやっているのかというと、観音様、お釈迦様、そして道元禅師様、瑩山禅師様、そのほかさまざまな諸仏、菩薩摩訶薩に、「南無」とお参りしているのです。

ただ、この時に「こうしてください、ああしてください、こうなりますように」というものはなくて、ひたすら拝むわけです。

布の上で頭をつけて拝む、この頭をつけるということが大事なのです。

 

その後、手を平らにして上げるのですが、これは何をいただいているのかというと、お釈迦様の足なのです。

仏足石(ぶっそくせき)をここにいただいているわけです。

ですから、手を握ってはいけません。

お釈迦様の功徳は仏足石、つまりお釈迦様の足にすべて表れているとも言われているのですけれども、これをいただくということになるのです。

ただ単に頭を下げているわけではありません。

お釈迦様をいただいているのです。

つまり、仏教そのもの、仏様の教え、そのほかもろもろ全部をいただいているわけです。

頭の中でそのようなことを考えながらやっているわけではなく、ただ「ありがたいな」といただいています。

 

このように3回拝むことから、これを「三拝」と言います。

ほかの宗派でも大体三拝をしますけれども、お釈迦様をたたえる、体を使った信仰の証しとしてこれがあるわけです。

これがもう少し大切な儀式になると「九拝」というのものになります。

さらに大きな法要になると「十八拝」というものがあるわけです。

皆さんもやってみたら分かると思いますが、大体20~30代のまでのころは平気なのです。

これが40代ぐらいから少しずつ「お拝って結構きついね」となってきます。

そして60代になってくると、十八拝もするとフラフラです。

これを禅師様は90歳になってもやるのですから、大変なことです。

 

チベット仏教などでは、インドの北方、あるいは中国寄りの所で、五体投地をして巡礼をしています。

このカイラス巡礼は、お坊さんだけではなく一般の人もやっています。

これは頭で考えた信仰ではできません。

「すべてお任せします」と、身を捨てるような思いがなければできないわけです。

 

ところが、わがままな自分の「我」があると、お釈迦様をいただけません。

何も考えずに、ただ座る、ただ拝む、ただお経を読むというのが大事です。

お経を読みながら余分なことを考えてしまうこともあるのですが、そういうときにもやはり「南無」が呼び戻してくれるわけです。

長い御真言もあるし、長い陀羅尼もあるのですけれども、究極は「南無」ということになります。

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