秩父札所十三番住職 南泉和尚

南泉和尚のブログ

ゆるす

2022年3月21日

 

人間には表の顔と裏の顔があって、モンスターや野獣のような部分が心や体の奥底にはあるのです。

それを私たちは、知ってか知らずか押し付けているのです。

 

モンスターはなくなりません。

しかし、モンスターを鎮めていくことができると、違う顔が出てくるのです。

般若の面がありますが、「あれは人間の心の奥底なんだ」ということを先日聞きました。

 

ですから、誰もが持っているのです。お釈迦様にもあったのです。

「人間は恐ろしい面も持っているということをしっかりと見て、受け止めていく」というようなことを先日お聞きして、「なるほどな」と思ったのであります。

 

今回は、私の体験をお話しいたします。

私はこのお寺に生まれて、ここで育って、お寺を継ぐというような立場でありました。

お寺を手伝う周りの人から「いずれ住職になるんでしょう」「お坊さんですね」と、ほかの子どもよりも何となく大事にされるというような経験がありました。

 

そういうことが蓄積されると、何となく「自分は偉いんじゃないか」みたいな錯覚を起こすわけです。

当時は少しだけ勉強が好きだったのですが、そうすると勉強できる気になってしまうのです。

それから少しだけ足も早かったので、「俺ってすごいんじゃないか」みたいに思ってしまいました。

 

やはりそれは良くないことです。

小学校でも中学校でも先頭に立つような立場が多かったので「自分は偉い」と思っていました。

「自分は偉い」と思うということは、つまり「ほかの人は偉くない」ということになります。

こういう考え方の人を「増長マン」と言うのです。

 

高校生になると、今度は非常に上下関係の厳しい部活を経験しました。

1年生のうちは何でも「はい!」と言っていたのに、2年生、3年生になると、今度は命令する側になるのです。

そういうことで勘違いしてしまうわけです。

 

大学が終わって大本山總持寺に行きましたが、ここもまた上下関係が厳しいところでした。

力のあるなしにかかわらず、年齢の上下も関係なく、1日でも1分でも先に入った人が先輩なのです。

そうすると、先輩の言うことは聞かなくてはいけません。

先輩が「カラスは白だ!」と言ったら、「分かりました!カラスは白です!」みたいな感じでやっていたわけです。

 

こういう環境に4年、5年、10年といると、良い悪いは別として、これが抜けないのです。

僕はそこに3年いたわけですが、それでも抜けなかったのですから、本当に大変です。

「頭を垂れる稲穂かな」ということで、年齢を重ねても頭を下げるということが大事なはずなのに、私はそれができなかったのです。

 

そして、そのまま秩父に帰ってくると、「人は自分が言った通りに動くんだ」みたいな「勘違い病」を患ってしまいました。

「人を指導するということは、人の良くないところ、間違ったところを見つけて、それを指摘して治させる。それが正しいんだ」と思い込み、人を変えようとしてしまったわけです。

 

つまり「自分が正しい病」ですから、「自分だけが正しくて、ほかは間違っている」「なんで周りの人は僕のことを分かってくれないんだろう」と考えてしまうのです。

地域が悪い、時代が悪い、行政が悪い、国が悪い、社会が悪い……。

「みんな他人のせいだ」ということになります。

 

そうなってくると、どんどん縮こまってストレスがたまってきます。

うちの子どもは「昔は、いつも家の中に唐辛子が舞っていたようにピリピリしていた」と言っていましたけれども、そのような感じだったのです。

 

そういう生活をしていたころに、私の考え方、捉え方、生き方を大きく変える出来事に出会いました。

それまでは「お前が悪いんだ。何で直さないんだ」と、他人を責めてばかりいたのですが、ある大きな事故が起こって、今度は責められる側になりました。

 

それまで責められたことがなかったのに、責められる側になったわけです。

しかも、どういうことをしても取り戻すことができない立場に立たされました。

徹底的に責められて「うわー、責められるってこういうことなんだ」と気付きましたが、自分の力ではどうにもなりません。

 

どんどん気持ちが落ち込んでいく中で、私は深く自分に向き合っていき、思い浮かんだことが1つありました。

それが「ゆるす」ということだったのです。

ゆるされるということを望んでいたからではありませんが、「『ゆるす』って何だろうな」と思って調べました。

 

私も含めて、ほとんどの方が最初に思い浮かべるのは「許す」という漢字です。

これは許可をもらうとか、どちらかというと上から下へ「はい、あなたを許します」みたいなものです。

これがほとんどだと思います。

 

ほかにもすぐ浮かぶのは「赦す」という漢字です。

上に「天」を付けると「天赦」、天が許してくれる、天から降ってくるみたいなイメージになります。

それからもう1つ思い浮かぶのは「恕す」、上に「寛」を付けて「寛恕(かんじょ)」と読みます。

「どうぞ寛恕の心を持って」とか「ご寛恕のほど、よろしくお願いします」というような文章を書くことがあります。

 

ほかにも「緩す」という漢字もあります。

それまでずっと緊張ばかりしていた生活を送っていた私が、緊張をほぐすことが大事なのかなと思ったのです。

さらに調べていくと「聴す」という漢字もありました。

 

つまり、いろいろな「ゆるす」があるのは、心の持ち方、心の捉え方次第で変わるからです。

今までの私は、どちらかというと上から下、「自分が正しくてほかは間違っている」というような考え方で生活していたから、自分を傷つけていたのです。

他人を責めているということは、実は自分が責められていたのだということに、責められる側になって初めて気が付きました。

 

人の話を聴くということが、実はゆるすということにつながるわけです。

それまで私は、話をするのがあまり上手ではありませんでした。

初めて会う方と、どうやって話していいのか分かりませんでした。

それはなぜかというと、「自分のことを理解してもらおうと」思ってしゃべるからうまくいかないのです。

 

そうではなくて、人の話を聴けば良かったのです。

「どういうことなんですか」「今どんなことで悩んでますか」「どこで生まれたんですか」「どういう人でしたか」みたいに話を聴いていると、どんどん話してくれます。

 

やはり「聴く」ということは「ゆるす」ということで、心がどんどん広がっていく感じを受けています。

そうすると、和やかな雰囲気になるのです。

人の話を聴いてゆるす、それは上から下ではなく平らな状況なのです。

 

「赦す」という言葉には、天から下へ、仏様から私たちにというイメージがあります。

しかし「ゆるす」というのは、同じ状況、同じ気持ちになってその人を受け入れるということなのです。

そういうような言葉から、観音様やお釈迦様が言っている「悲心」、人の苦しみを抜く大きな力を持つことにつながっていくのかなということを感じています。

 

人を責めることが、結果的に自分を責めることになっていました。

ですから、苦しんでいたのです。

まず自分をゆるす、自分を緩やかにする、緊張をほぐした生活をしていくと、結果的にほかの人に対しても緩やかな対応ができるようになって、集まってくる人たちも穏やかになっていきます。

「緩やかな心を持ちたい。やはりそれには『ゆるす』という心を持つことが大切なんだ」ということを感じている次第です。

 

さまざまなものが蓄積されて私の心や考え方が大きく変わっていったのですけれども、そういうことがなかったら、今私はこのような話をしていないだろうし、全く何も気がつかないままで生活をしていたはずです。

嫌なやつで、独りよがりで、傲慢でわがままな、どちらかというとふんぞり返ってしまうお坊さんのままでいただろうなと感じています。

 

人は何がきっかけでどのようなことが起こるのか分かりませんけれども、人生が大きく変わるようなことが起きた時に何を掴むのかが大事なのです。

その時、私が掴んで忘れないものが「ゆるす」という言葉です。

 

「ゆるす」は「許す」ではありません。

いろいろな意味を含めた「ゆるす」を大切にしていきたいなと思っている次第です。

これが「悲心」につながるのだろうと感じています。