正法眼蔵 現成公案って何が書いてあるの?
『現成公案(げんじょうこうあん)』には、「私たちが接している全てのものが仏様の姿であり、それが命題だよ」ということが書かれています。
禅宗では、師匠が課題を出してそれに答えることを「公案」と言います。
そういう問答の質問がたくさんあるわけですが、師匠はそれを弟子の力に応じて与えるのです。
しかし、この『現成公案』はそうではなくて、「私たちが触れているこの世界そのもの全てが質問だよ。それにどう答えるんですか?」ということが書かれているのです。
この現成をどう捕まえて自分なりに受け止め、どうやって一歩進めていくのかということが求められているのです。
これを何度も何度も読み込むということが大事なのです。
「『正法眼蔵』は口に出して読まないとよく分かりませんよ」と言われて、それに挑戦しているわけですけれども、やはり読み込んでいかないと体の隅々まで行き渡らないなと感じています。
『現成公案』の中でも最も有名なのが次の部分です。
「佛道(ぶつどう)をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法(まんぽう)に証(しょう)せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心(しんじん)および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹(ごしゃく)の休歇(きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ。」
「仏教を身につけるということは、自己を習うということですよ」「仏道を学ぶということは、自分自身を習うということですよ」と道元様はお示しになっているわけです。
では、「自己をならふ」というのはどういうことなのでしょうか。
「それは、自分自身や自我を忘れ切ってしまうことですよ」と言っているわけです。
つまり、これが「佛道をならふ」ということなのです。
そして「自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」と続きます。
自己を忘れるということを、人間の力の及ばない、宇宙の始まりから根源的に拡がっている、ありとあらゆる法によって証せられるわけです。
この辺りはまだ私自身もつかみ切れていませんけれども、「佛道をならふ」ということは「万法に証せらるる」ということなのです。
さらに「万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」ということでございまして、ここでも「身心脱落」という言葉が出てまいりました。
この辺りをどう捕まえるのかということが、まさに現成公案となるわけです。
これらのことを自分なりにどう捕まえるのか、これが『正法眼蔵』の中でも最も有名な言葉であり、大きな課題、公案として私たちに示されているところであります。
「私たちを取り囲んでいるありとあらゆるもの、現象世界そのものの中に全て答えがあるのだけれども、それが全て課題でもあるよ」ということが示されたということを、これからの私と皆さんの公案としていきたいなと感じた次第です。
そしてもう一つ、よく「悟るとどうなるでんしょうか?」とか「私は迷ってばかりです」みたいなことを言われることがありますので、『現成公案』をそのまま読んでみましょう。
「自己をはこびて万法を修証(しゅしょう)するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟(たいご)するは諸佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。」
要するに「『迷っているんだ』ということをしっかりと受け止めているのが仏様ですよ」ということです。
「悟りって何だろう」と追い求めて迷っているのが衆生、つまりわれわれです。
仏様は自らが迷っているということを分かっています。
しかし、われわれは悟りを求めて迷っているということがここに示されているのです。
私たちは「どうすれば解決するだろう」と考えているから迷ってしまうのです。
今こうして生きていることがすべてなのですから、悟りだろうが何だろうが、そこにどかんと座っていればいいということなのだろうなと今は感じています。
そういうような世界があるのだということを信じ切るということ、そこが大事です。
迷いを大悟するのが仏様です。
悟りを求めて大きく迷っているのがわれわれです。
『現成公案』の一句一句は道標ですから、今後も少しずつ掘り下げていきたいと考えています。