御朱印の始まり
今回お話しするのは、御朱印のことです。
今は、神社さんやお寺さんがさまざまな形で特別にデザインされた御朱印や御印を作り、お分けしています。
そして、それを求めている方も多くいます。
御朱印をきっかけにお寺巡りや神社さんをお参りするという方も多いと思いますけれども、もしかしたら、あなたもそうかもしれません。
しかし、この御朱印がそもそもどのように始まったのか、どのようなきっかけで生まれたのかということについては、ご存知ない方が多いとお見受けいたしました。
もともとは、お寺に写経を収めた証としていただくものが御朱印なのです。
御朱印の別名として「御納経(おのうきょう)」という言葉があります。
かつて、秩父の札所では「御朱印」という言葉をあまり使いませんでした。
「御納経が来ました」と聞くと、「え、JAさんが来たの?」みたいな感じで、「御納経」と言っていたのです。
ところが、最近は「御納経」と言っても分からない人の方が多いので、私たちも「御朱印」と言い替えています。
慈眼寺には、御朱印の始まりに深く関わった徳道上人の仏像が収められています。
徳道上人は奈良の長谷寺の御開山で、750年代の方ですけれども、この方が観音様の信仰を深くいたしました。
この方が大病を患って昏睡状態になった時に、夢枕に閻魔様が現れたのです。
皆さんご存知の通り、閻魔様は地獄の門番、裁判官です。
そして「このごろ、世の中はどうも心が乱れている人が多い。このままでは世の中がどんどん悪くなっていく。それではいかん。徳道上人、あなたに33の御朱印を授けます。これからもう一度息を吹き返して、皆さんの心が安らかになるように、ぜひ観音様の教えを多くの方々に広めてください」と、閻魔様が徳道上人に御朱印を託したのです。
徳道上人は閻魔様の言葉を受けて御朱印を世の中に広めようとしたのですけれども、なかなかうまくいきませんでした。
そして、中山寺というお寺の石櫃にその御朱印を収めて亡くなってしまったという言い伝えが残りました。
それから200~300年ほど経ちました。
天皇陛下が引退して出家すると法皇になるのですけれども、当時、花山法皇という方がおられました。
そして、姫路にあります圓教寺の御開山である性空上人とともに、言い伝えが残っていた中山寺の石櫃から御朱印を取り出したのです。
それを西国三十三所の観音霊場にそれぞれお分けして、西国三十三所が復興したと言われています。
つまり御朱印というのは、徳道上人が観音様の教えを世の中に広めるために始められたものを、性空上人と花山法皇がよみがえらせて、西国の巡礼が復興したわけです。
ですから、御朱印の始まりは徳道上人であり、性空上人であり、花山法皇、そして閻魔様なのです。
それが千数百年にわたって形を変えて、私たち小さなお寺も神社さんも御朱印を大切にして、ご本尊様や言われのある神様を描いて、真ん中に判を押して皆さんにお分けしているわけです。
御朱印というのは、こういうようなところから始まっています。
ですから、西国のご住職方、お坊様方は本当に御朱印を大切にしています。
これを私は肌で感じました。
本当に大事なものなので、皆さんも御朱印をいただく時には、今回お話ししたことを少し頭に置いていただくとよろしいかなと思います。