懺悔文(さんげもん)

これまでにも『慈眼寺勤行聖典』に基づいたお話をしていますけれども、今回は、『懺悔文』についてお話をしていきます。

 

キリスト教では「懺悔(ざんげ)」、仏教では「懺悔(さんげ)」と濁らないで読みます。

どちらも神様、あるいは仏様の前で自分の罪科を全部さらけ出すということです。

 

『懺悔文』というのは「我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう) 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち) 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)」という28文字の短いお経です。

 

しかし、これが深いのです

「私たちは、自分が意識するしないにかかわらず、さまざまな罪科、悪業を作ってしまいます。これらは全て、何も知らないことが理由なのです。そしてこれは身口意によるものです。しかし、私が起こしてしまった罪科を今、仏様の前に全部さらけ出します」ということです。

全部さらけ出すということは、自分の我をなくすということなのです。

 

この中で、皆さんが生活するうえでぜひ覚えておいてほしいのが「貪瞋痴(とんじんち)」という言葉です。

仏教は面白いことに、何かをまとめる時に「三」という数字をよく使います。

「経」「律」「論」、これを「三蔵」と言います。

「経」はお経、「律」は集団が守ること、「論」はお経の解説本のことです。

この三蔵を説いたものを『一切経』と言って、十三番の蔵の中に納められています。

 

同じように「南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)」の「三帰依」にも、「三」という数字が含まれます。

それから「佛」「法」「僧」の「三宝」もそうです。

 

そして、今回の「貪瞋痴」、これをお釈迦様は「三毒」と言いました。

私たちは知ってか知らずか、この三毒をずっと持っているのです。

そして「身口意」を「三業」と言っています。

 

「貪瞋痴」の「貪」は貪る、欲望が抑えられないということです。

これは食欲だけではありません。

例えば、今ヨーロッパを中心とした争い、これも貪りです。

人間には貪りというものが根源的にあって、抑えることができません。

これは遺伝子的に組み込まれているようにも思えます。

 

私たちはなかなか「貪」と上手くお付き合いすることができません。

お釈迦様は「食事というのは自分の体を整える分だけ食べなさい。それ以上食べてはいけません」と言っています。

 

次の「瞋」、これは怒りです。

やはりこれも、人間の遺伝子に組み込まれた根源的なものとして存在しています。

怒りというものは、脳が発火して起こります。

そう考えると、本当に今のヨーロッパの状況はまさにそうなのです。

あの方はコントロールができなくなって、脳の中に怒りの信号が出まくっているのではないでしょうか。

 

「貪」「瞋」を抑えることができるのかということが、大きく自分の人生に影響してきます。

「貪・瞋、これをしっかりと抑えろ」というお釈迦様のお示しは深いなと思います。

 

そして最後の「痴」です。

これは学問ができるとかできないということではありません。

「世の中というのは、大きな仏様の世界があって、複雑に絡み合って存在している。私たちはいただいた命の中でこうやって生きているんだよ」ということを知らないということです。

自分1人で何でもできるわけがない、そういったことを知らずに「俺が、俺が」というのは、まさに「痴」なのです。

 

この「貪瞋痴」という三つの毒を私たちは持っているのです。

私自身もそれを全部抑えられたのかというと、そんなことは決して言えません。

だからこそ、「貪瞋痴という煩悩を抑えるために、身口意に気を付けましょう」ということになってくるわけです。

 

「身」は行動、「口」は言葉、「意」は考え方、思いのことです。

この身口意をしっかりと整えることができると、貪瞋痴が自然に収まってきます。

荒っぽい言葉を使って荒っぽい行動しているということは、「貪」「瞋」が出ているということですから、これでは争いが起こってしまいます。

 

「貪瞋痴」「身口意」という「三毒」と「三業」というものが密接につながっているのです。

ですから、身口意を整えるということが貪瞋痴を抑えることになるわけです。

これが、みんなが幸せな世界につながっていくのだなと私は思っています。

 

28文字の『懺悔文』は「私は昔こんな罪を犯してしまいました。仏様、どうぞ許してください」というお話ではありません。

日常の生活を整えて、本当にすべてをさらけ出すことができるところまで自分を追い込んでいった時に、初めて観音様が手を差し伸べてくれるのです。

 

懺悔というのは本当に奥が深いのです。

体と心から、まさに身口意から懺悔できた時に貪瞋痴も収まり、そして仏菩薩との感応道交、「ああ、包まれている。ありがたい」という世界に入っていくのです。

 

これは私の『懺悔文』の捉え方ですから、皆さんと違うかもしれません。

「私はこう思う」というものがあってもいいのです。

しかし、「心を整えることが、言葉と行動も整えていくということにつながっていくんだ」ということを意識していただけるとありがたいなと思います。

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