自分軸を持つ
物事を判断する自分の軸を持つ
その軸がぶれない。すると動じなくなる。相手がどう出ようと、何と言おうと、回りがどうだろうと、制度が変わろうと、動じない。
深い深い思考から導き出された、軸を持てば持つほど動じない。
自分軸は、行動の規準でもある。自分が何をすべきかは、自分に従って行動すれば良い。
しかし、その自分軸が、自分中心に出来ているとうまくいかない。まず、利他を先としなければならない。利他に徹する自分軸であれば、結果、自分に戻ってくる。
「愚人謂わくば、利佗を先とすれば、自らが利はぶかれぬべしと。爾には非ざるなり。
利行は、一法なり。普く自佗を利するなり。(修証義)」
自分軸を持つということは、行動規準、つまりポリシーを持つということである。
ポリシーとは、いうなれば、こだわりだ。どうしても、ここだけは、こうしたい、というこだわりだ。
知り合いに女性の大学教授がいる。その教授は、白い服しか着ないというこだわりを持っている。どこに行くにも、白い服。
そこには、教授の強いこだわりがあり、白にした哲学がある。ポリシーだ。
自分軸を持っている。
年末に封切られた映画「聯合官界官庁山本五十六」を観た。映画を観て、浮かんだことは、自分軸だった。山本五十六もあの時代の厳しい流れの中にあって、自分軸に従った。
そう感じた。自分軸を持つ人とそうでない人との違いを感じた。
自分軸を持つには、どうすればいいだろう?
まずは、自分のこだわりを列挙してみる。ポリシーを書き出す。徹底的に書き出す。それをながめる。すると、似通ったものがある事に気づく。
似ていいるもの、まとめられるものを集める。そして、簡潔明瞭に一言で言い表すことができる言葉に集約する。
こうして自分のポリシー○か条ができあがる。これが、自分の行動規準となり、自分軸を持つことが出来る。
自分軸を持つと従うものが変わる。回りに従うのではなく、自分に従うことになる。
主人公だ。
自分をよるべとすることだ。
自分をよるべとすることになると、よるべとなるにふさわしい自分にならなければならない。
自立し自律できる自分だ。
自分軸を持つということは、理想とする自分を生きるための指標であり、自分に課すルールを持つということでもある。
自分との約束を決めるということでもある。
自分軸に従う、つまり、自分に従う生き方を行ずる。
毎日、ひたすら行ずる。
行持というのは、このことを言うのではないか?
そして、行持というのは、一日だけのことではない。しつづけることだ。
行持をお寺で行ずる人を行持職、つまり住職というのだろう?