アングリマーラ 殺した人の指で首飾りを作った男
年代によって違うかもしれませんが、子どもの頃に「こんなことしたらバチが当たるよ」と言われたことがあると思います。
今回は「本当に仏様はバチを当てるのだろうか?」という話をします。
結論から言いますと、仏様はバチを当てません。
では、バチを当てるのは一体誰なのかというと、それは人間なのです。
私たちは特に子どもを諌めようとする時に、自分で「それは良くないよ」と言うのではなく、他の人を身代わりにして「バチが当たるよ」と言っているわけです。
仏様はどういう人にまで手を差し伸べて救ってくださるのでしょうか?
そこで思い出されるのが、お釈迦様がまだ存命だった頃のエピソードで、アングリマーラという人が出てきます。
アングリマーラというのは世にも恐ろしい殺人鬼なのです。
アングリマーラは「自分が何者なのか分からない」ということで、ある先生に教えを乞いました。
そうすると「1,000人を殺めて、殺めた人の指で首輪を作ったら教えてやろう」と言わたのです。
アングリマーラはそれを信じ込んで、次から次へと殺人を犯していくわけです。
そして「殺人鬼アングリマーラ」として大変に恐れられていきます。
ついに999人もの人を殺し、あと1人というところにお釈迦様がやってきました。
当然、弟子たちや近隣の人たちは「ここにはアングリマーラという殺人鬼がいるから通ってはいけません」と制するわけです。
しかし、お釈迦様はアングリマーラが潜んでいる道に進んでいったのです。
アングリマーラは、正々堂々と厳かに、それでいて美しく自分の目の前に歩いてくるお釈迦様の荘厳さに打たれてしまい、歯向かうことは一切せず「弟子にしてください」と頼みました。
アングリマーラは999人もの人を殺めていて、とても深い罪があります。
ところが、お釈迦様は、アングリマーラに弟子になることを許したのです。
当時のインドでは、仏門に入ると法の適用外となり、罪に問われなかったそうです。
しかし、アングリマーラが仏門に入ることを許した時、お釈迦様は「お前が犯したのはとてつもなく大きな罪なんだ。仏門に入ることによってすべてが救われるわけじゃないんだ」と言いました。
インドでは、街の中を歩き、托鉢をして自分の食をいただきます。
いくら格好を変え、髪を剃ったとしても、アングリマーラがアングリマーラであることには変わりがありません。
「街にはおまえによって被害を受けた家族がいる。その人たちからさまざまな非難の言葉を受け、石を投げられるかもしれない。そういうことがあっても耐えなければならない。受け止めなければならない。しかし、おまえが仏門に入って仏行を遂げたいということに対して、私はそれを否定はしない」ということで、仏門に入ることを許されます。
そして、アングリマーラはそれまでの罪があることを重々承知のまま、お坊さんとして新たな人生を歩むわけです。
では、アングリマーラがすぐに立派なお坊さんになったかというと、そうではありません。
過去の事実を拭うことはできませんから、街を歩けばみんなから責められます。
しかし、ひたすらそれに耐えて仏様の教えに従った生活を送っていきます。
もし、お釈迦様が「おまえはたくさんの罪を犯したんだから、仏教の教えの中に入れることはできない。おまえは法に従って裁かれなければならない」と拒絶していたらどうなっていたでしょうか?
しかし、お釈迦様はそうはなさいませんでした。
その人が過去にどのような罪科を犯したとしても、「お釈迦様の弟子になりたい」という思いがあればそれは受け止めるということが、お釈迦様の示した教えだと思います。
どれほどの罪人であろうと、どれだけ罪が深かろうと、救いの手をしっかりと差し伸べる、ここにお釈迦様の精神が表れている気がしてなりません。
今、世の中では本当に罪深いことが様々に起きていて、何ともいえない気持ちになる方々もたくさんいらっしゃると思います。
しかし、どのような状況であったとしても、お釈迦様を信じて、仏様を信じて救いを求める人に対しては、お釈迦様や仏様は救いの手を差し伸べてくれると感じています。
仏様はバチを当てません。当てるのは人間なのです。