どうして仏教には宗派があるの?

今回は、「住職、何で宗派ってあるんですか?」という質問をいただいたので、それにお答えします。

 

私も子どものころは「何で宗派なんてあるんだろう?」と、ずっと疑問でした。

父でもある師匠に「何で宗派なんかあるんだよ。そんなのいらないじゃないか」「仏教はお釈迦様から始まったんだからお釈迦様1つでいいじゃん。そんなの意味ないじゃんか」と言って怒っていました。

怒っても仕方がないのに、よく親父に食ってかかっていたわけです。

 

うちの昔の夕飯は、いつも大討論会でした。

大体私が「どうして世の中はこうなっているんだよ?」と吹っかけていたのです。

今思えば、どうしょうもない若造がただ吠えていただけなのです。

 

大学は駒澤大学の仏教学部仏教学科に行ったのですけれども、駒澤大学には仏教学部の中にも仏教学科と禅学科というものがありました。

禅学科というのは坐禅、それから曹洞宗や道元さんなどを専門的に学ぶ学科です。

そこでも私は「何で宗派なんかあるんだよ」というような疑問があったので、禅学科ではなく仏教学部の仏教学科というところに行きました。

 

その中でも、お釈迦様の初期のころのことを学ぶことで、きっと基本的なことが分かるのではないかなと思って、パーリ語を学ぶゼミに入ったのです。

サンスクリット語というのがインドには古くからある言葉なのですが、パーリ語というのはその方言みたいな形で、お釈迦様が実際に使われていただろうと言われている言語なのです。

そのパーリ語で書かれた経典を、パーリ語を学んで読みましょうというようなゼミだったわけです。

 

ところが、ご存知の通り、私は大学に行くのになかなか時間がかかってしまいました(笑)。

そのパーリ語の教室には何回か通って、パーリ語の辞書も買いましたが、単位は取れませんでした。

法句経、ダンマパダやスッタニパータ、それがパーリ語ですから、そこをもし一生懸命やっていれば、今はパーリ語のパーリ先生だったかもしれません(笑)。

ところが、今は普通のお坊さんです。

しかし、これからパーリ語をもう1回勉強したいなという思いを、実はずっと持っています。

 

そのように、大学ではパーリ語など、言葉やそのころの経典のことも学びましたが、「何で宗派があるのか?」という疑問を解くことはできませんでした。

それから曹洞宗の大本山総持寺に登って、坐禅を中心にした生活を3年間過ごしました。

そして、秩父に帰ってまいりますと、秩父は札所ですから、曹洞宗だけではなく臨済宗さんや真言宗さん、または浄土宗さんや日蓮宗さんとも交流もあるのです。

いろいろな宗派の交流がありまして、特に臨済宗さん、真言宗さんとは今でもよくお会いするわけです。

そうすると、ますます「宗派なんかいらないじゃないか」と思うようになりました。

 

ところが、あるとき気が付いたのです。

これはいろいろな人の本を読んだり、お話を聞いたりした中で気付いたのですけれども、山を登る目的はみんな1つなのです。

山を登る人は、みんな頂上を目指すわけです。

同じ山でも、ある人は「エベレスト」と呼び、ある人は「チョモランマ」と呼び、ある人はネパール側から登り、ある人は中国側から登ります。

しかし、みんな頂上を目指すわけです。

これが宗派なのです。

 

お釈迦様の説いた教え、お釈迦様の理想としていた姿を目指しているわけです。

しかし、そこに至る歩み方、登り方が違うのです。

私は山にはそれほど詳しくありませんが、装備も変わるではありませんか。

酸素を使うのか、無酸素で行くのか、あとは履くもの着るもの、身に着けるものも違ってくるわけで、その仲間が宗派ということになります。

しかし、目指しているのは1つ。

ですから、いろいろな宗派があっていいわけです。

 

以前にもお話ししましたが、曹洞宗は絡子(らくす)というものを身に着けますが、それが宗派によって輪袈裟になったりするわけです。

お袈裟の掛け方も違います。

輪っかのあるお袈裟もあれば、形の大きなお袈裟もあったりします。

また、韓国の仏教や中国の仏教でも着ているものが違うわけです。

それはそうです。

生活習慣が違うのですから、そこに合わせてどんどん変容していく、これが大事なのです。

ですから、どんどん変わっていっていいわけです。

 

お釈迦様が開いた仏教は、実は最初は1つだったわけです。

ところが、面白いことに、お釈迦様が亡くなってからしばらく経つとこれが分裂します。

ある方々は「お釈迦様の教えの通りにやらなきゃならない」、ある方々は「いやいや、今世の中の人がこれだけ苦しんでいるんだ。世の中の人たちにもっと近づいていかなきゃいけないんだ」というようなことで分かれていくのです。

これを「根本分裂」と言って、上座部と大衆部に分かれるわけです。

 

やはり大事なのは分裂なのです。

なぜなら皆さん、分裂しなかったら私はここにいないのです。

たった1つの単細胞が、母親の胎内で分裂を繰り返して、赤ちゃんになって産まれてくるわけです。

つまり、生きものというのは分裂しないと成長できません。

ですから、仏教もどんどん分裂しています。

どんどん分裂していくことが進化につながるのですから、2,500年、2,600年経ってまたさらに分裂して進化をしていくわけです。

 

時代時代に合わせて、目の前にいる人の今の悩み、今の課題、今克服しなければならないようなことに対して、分裂して進化することで応えようとするわけですから、どんどん分裂して進化していくことが必要なのです。

ですから宗派というのは、時代時代に合わせて、お釈迦様という巨大な山に向かって登っていく方法や着ているもの、使うもの、または考え方、やり方、在り方が違うだけなのです。

目指してるのはみんな1つ、涅槃寂静なのです。

 

もう1つ、「仏教はみんな同じなんですか?」という質問がありました。

もともと仏教はインドの北の方で生まれたのですけれども、これが面白いことに、どんどん広まっていくのです。

インドから南の方に広がっていった仏教と、インドから北の方に広がっていた仏教があるのです。

先ほどの「お釈迦様の通りに修行して、お釈迦様の通りの生活をそのまま守っていきましょう」という上座部の方々のお教えというのは、南の方に伝わりました。

「いやいや、これからは出家だけじゃなく、出家していない人たちも一緒になって救っていけるような教えが大事なんだ」というのは、どちらかというと北の方に伝わっていったのですが、こちらの人たちから生まれたのが菩薩です。

 

南の方に伝わった人たちからは、そういう発想は出てきていません。

お釈迦様の教えの通りにずっと守っているわけです。

ですから、スリランカやタイ、ミャンマーなどの人たちはお釈迦様の教えに近い形で、今でも戒律を守って妻帯もせずに生活しています。

 

ところが、北の方に伝わったものはどんどん民衆に溶け込んで、または政治にも入ってくるようなこともありました。

そういうようなことで、どんどん北から中国、またはチベット、朝鮮半島、そして日本、それがまた今度はアメリやとヨーロッパに伝わっていくわけです。

もちろん南の方から日本に伝わったものもあるし、ヨーロッパやアメリカに伝わったものもあります。

 

それがまた面白いことに、ヨーロッパやアメリカに伝わる時には両方一緒になって伝わってくるので、どっちがどっちかなど、どうでもよくなってしまいます。

南の方に伝わったのは、どちらかというと瞑想というような要素が強くて、北の方に伝わったのが坐禅という形で1つの宗派になっていくわけです。

それがアメリカやヨーロッパへ伝わる時に一緒になって、それが今どうなったかというとマインドフルネスです。

 

マインドフルネスというのは、ヨーロッパの人が南の方に伝わった仏教と出会って、それをヨーロッパに持ち帰って研究したものがまたアメリカへ伝わった時に、今度は脳科学的な裏付け、エビデンスも取りつつ広がって、また深まっているものです。

マインドフルネスの中から宗教的なものを取り除いたものも出てきて、それがまた精神的な医療の現場でも使われるようになってきたということです。

 

もとはお釈迦様ですから、辿っていくと目指すべき山は1つです。

やり方、在り方、歩き方、着ているもの、装備が違う、それだけのことです。

ですから、いろいろな宗派があっていいのです。

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