お釈迦様が据えた生老病死という4つのテーマ
自分の命がいつ生まれたのかということを考えて、頭が混乱しました。
受精卵の時なのか、母親の体内から生まれた時なのか、これはキリスト教的にも問題になっていますけれども、さてどうなのでしょうか?
では、受精卵として生まれたのはいつなのでしょうか?
そこには父母がいるわけで、そのまた父母もいるのです。
命というのは一体何なのでしょうか?
命の始まりは一体いつなのでしょうか?
では、命の終わりはいつなのでしょうか?
孫が生まれて「さて、この子の命は一体いつから始まったんだろう?」と思うと、ビッグバンまで行ってしまうわけです。
「ビッグバンから命がつながっているんだ」と感じたのです。
では、命とは一体何なのでしょうか?
そしていつ死ぬのでしょうか?
何のために遺伝子、DNAがあるかというと、その命を引き継ぐためにあるわけです。
それを引き継ぐために生まれて死ぬわけだけれども、そうすると死もつながっているのです。
そこでまた、死とは何なのかと考えてしまうわけです。
これは、そろそろ95歳にならんとする母を見ていて思ったことです。
肉体としての命は滅びるかもしれないけれども、命というのはまだまだ繋がっていくわけです。
母から私、私から娘、娘から孫とつながっていると感じたのです。
仏教というのはすごいなと思うのですが、お釈迦様は「生老病死」という4つをテーマにしています。
生まれる・老いる・病む・死ぬ、そのことをどういうふうに受け止めるのか、人間みんなそれにはあてはまっていて、そういう課題が必ず降ってくるわけです。
お釈迦様が、自分が生きる上でのテーマとして「生老病死」ということを正面にドカンと据えた、そこに仏教の、ほかの宗教とは大きく異なる1つの道しるべがあるのです。
お釈迦様の教えの中に、または自分の脳がブワーッとなっている中に自分なりの答えを見つけていく、それが仏教に対する1つの向かい方なのだなということを、最近孫が生まれて感じています。