「経験する自己」と「物語る自己」

最近、朝に常楽寺の草むしりをしながら、オーディオブックという、耳で聴く本を聴いております。

ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』、『ホモ・デウス』、または『21 Lessons』、それ以外にもいろいろと聴いたのですけれども、今日たまたま聞いたところが非常に面白かったので、そのことについてお話しします。

 

私たちは「本当の自分」というものがあるのではないかと思って、「本当の自分」と出会いたいということで、いろいろなことをするわけです。

仏教、特に禅宗では「真実の自己を研鑽するために修行するのだ」ということを言います。

ところが、最近の科学的な研究によると、どうもそういったものはないのではないかという説が出てきたらしいのです。

そうすると「本当の自分とは何だ?」「実は本当の自分ってないんだ」ということで、「じゃあ何に迷ってきたんだろう?」というような感じになるわけです。

しかし坐禅や瞑想はとても大事ですし、それと本当の自己を参究することについては、一向に矛盾はしません。

 

2002年に、心理学者で初めて経済学でノーベル賞を受賞した方がこんなことを言ったのだそうです。

「人間には、経験する自己と物語る自己とがいる」、つまり2つの自分がいるということです。

本当の自分というのは、真実唯一無二の自己ということではなく、この2つの自分かもしれません。

そこで「ははあ、なるほどな」と思ったのです。

「経験する自己」、つまり私たちはいろいろなことを経験します。

そして、その経験によっていろいろなことを判断するわけです。

それから「物語る自己」というものがあって、これが記憶やそういったものを司っています。

そして、「物語る自己」はいろいろなことを語り始めるわけです。

 

この2つのモデルがあるということを考察しながらいろいろなことを考えていくと、心理学的には深層心理、つまり表面に現れている自分のもっともっと深いところに現れていない自分がいます。

そこにはいろいろなモンスターがいて暴れるわけですが、それがもしかしたらこの「物語る自己」なのかもしれないな、と思ったわけです。

まだうまく説明できない部分もあるのですが、ひとまず今日は「経験する自己」と「物語る自己」がいるのだということをお伝えしたいと思います。

 

そして「物語る自己」というものが記憶に携わっていて、こちらがいろいろと物語っていくのです。

人間の記憶には、どうも「ピーク・エンドの法則」というものがあるらしくて、どういうことを覚えているかというと、ピークと終わり、つまり一番上の時の記憶と、その経験をしたりいろいろなことをやった時の最後の記憶、これを平均化してしまうことで覚えるのだそうです。

よく考えてみると、お話の最初のころなんて全然覚えてないですよね?

ところが、最後の印象は残っているわけで、これが「物語る自己」として記憶されているのです。

 

「経験する自己」と「物語る自己」という2つのモデルが人間の中にいるらしいということを、ユヴァル・ノア・ハラリの本を通して学びました。

 

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