私の姓は、柴原。

しかし、血族として代々受け継がれてきたのではない。

祖父の姓は、わからない。祖父の両親が、よくわからないからだ。
渡辺と太田のどちらかだと思われる。

祖父は、幼いころ家族姉妹がみな亡くなり、天涯孤独になる。
そして、寺の小僧となった。師匠は、内野という。

祖父は、養母に育てられる。そこで、田中という姓になる。

縁あって秩父にくるのだが、夫婦養子として、寺に入ることになった。
その養母が、柴原だった。

なので、柴原を名乗っている。
それだけだ。

父は、柴原を名乗った。
父の弟は、二人とも別の姓を名乗った。
兄弟全員姓が異なる。

柴原家の仏壇は、たくさんの姓の位牌が祀られている。

一般的には、代々続いてきている姓は、とても大切にされている。これからも大切にしなければならない。

でも、ほとんどの家の姓は、代々続いているのではない。
明治になって、ついたのだから。

それほど、こだわる必要はないのではないのか?というのが、私の思いだ。

姓や先祖にこだわりを持っているけど、ほとんどの場合先祖というのは、自分が知っている人までのことを思っているらしい。
せいぜい、おじいちゃん、おばあちゃんまで。それ以前の人は、見たことがないから、供養と言っても・・・という。

私の頭は、?で埋め尽くされる。

先祖を大切にするというのは、その見たことのない人を大切にするということなのではないだろうか?
私の感覚だと、見たことがないからこそ、先祖なのだと思う。

その頃は、ほとんどの人に姓はなく、名前だけだった。だからどう繋がっているのかは、分からない。でも、もし子孫がいるとしたら、確実につながっていることだけは、事実だ。
だからこそ、よくわからない今の私たちが、手を合わせ、花を手向けて、供養することが、必要なのだ。

姓をたどるだけでは、浮かび上がらないことがある。

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