【修証義第四章】お経って何が書いてあるの?

『修証義』の第四章の第十八節、「発願利生(ほつがんりしょう)」に「菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)すというは、己れ未だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度さんと発願(ほつがん)し営むなり、設(たと)い在家にもあれ、設い出家にもあれ、或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度佗(じみとくどせんどた)の心を発すべし」とあります。

「自未得度先度佗」というのは聞き慣れない言葉だと思いますけれども、これはどういうことかというと、「自分は渡らないけれども、ほかの人を先に渡す心、これが悟りを求める心だ」ということです。

 

そして、「菩提心」というのは、悟りを求める心です。

自分が悟りを開いて心を落ち着かせるために、まずは「よし、俺行くぞ」という気持ちが起こらないといけません。

「別にいいや」という気持ちでは一歩前に進むことはできないのです。

 

では、「菩提心を発す」ということは一体どういうことかというと、「自分は先に行かなくてもいいんだ。今の力量のままでいいんだ。ほかの人を先に渡すことができるんだ」ということで、つまりこれは船頭さんのようなものなのです。

仏教では、悟りの世界を「彼岸」と言い、われわれが今住んでいる迷いの世界、凡夫の世界を「此岸」と言います。

 

こちら側からあちら側の間には大きな川、やはりインドですからガンジス川があるわけです。

ガンジスの向こうが彼岸であり、この幅広い川を渡るためには船頭さんが必要なのです。

船頭さんは船を漕いで人々を向こう側の岸に渡しすと、こちらに戻ってきて、またほかの人を乗せて渡します。

これが「自未得度先度佗」ということなのです。

 

「自未得度先度佗」の「度」にさんずいを付けると「渡」となります。

「己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さん」、つまり「自分は渡らないけれども、ほかの方を渡してあげよう」という気持ちを持つということです。

これが真理を求めるものの心、菩提心だということになります。

自分にはその力量がなくても、船頭さんにはなれるでしょうから、船頭さんになればいいのです。

 

この話は自分の師匠、つまり父親から聞いていたのですが、その時は「はあはあ、そうか……」みたいな感じでした。

私は今まで、よく「まだまだ俺にはそんな力がない。まだまだ準備ができてないからやらないんだ」と言っていました。

そうすると妻に「あんたはいつもそういうふうに言って、何もしない」と言われます。

確かに、「まだ準備ができてない」「まだ整ってない」「私にはそんな力がない」と言っていたら菩提心は起きないのです。

 

「設い在家にもあれ、設い出家にもあれ」、お坊さんでなくてもお坊さんであっても関係ありません。

「或いは天上にもあれ、或いは人間にもあれ」、仏様であっても人間であっても、この心を起こせば菩提心、つまり自分たちだけではなく世の中の人みんなに「ハッピーな世界なんだよ」ということを伝えられる気持ちになるということです。

 

涅槃や菩提というのはそういうことです。

涅槃の世界を求めていく心が菩提心ですから、この菩提心を起こすためには「自分にはまだそんな力がない」などと思っていてはダメなのです。

そのようなことは関係ありません。

自分の今の力量で話せる内容をそのままお伝えして、ほんの少しでもいいからこの川を一緒に渡っていこう、ハッピーな世界にみんなで行こうと伝える、つまり「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦(ぎゃあてい、ぎゃあてい、はあらあぎゃあてい、はらそうぎゃあてい)」というわけです。

 

私も「一句一偈(いっくいちげ)の法も布施すべし」ということで、今できることを精一杯お伝えしております。

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