違いを認める 個性を認める

人は、誰一人として全く同じ人はいない。

みんな違う。

 

産まれた時間も場所も違う。親も違う。育ち方も違う。食べ物の違う。

 

何もかもみんな違うのだ。

だから、考え方も違う。導き出す結論も違う。

 

自分と同じ考え方の人などいないのだ。

 

 

なので、違いを認めることが大切だ。

みんな違うのだから、ある意味、当たり前のことなのだ。

 

ところが、この違いを認めようとしないことが多い。

一人ひとりだといいのだが、グループ、組織になると違いを認めにくくなる。

「あいつ、変なやつだ」

「あの人は、私たちと違うのよ」

 

グループの意志が働き始める。

常識?

誰かが決めたのではないが、グループ内に存在する暗黙知。

そこから、はずれるとグループから排除されてしまう。

 

だから、自分の意志とは異なっていても、グループ内に留まることになる。

グループには、ルールができあがる。

 

たとえそうであっても

グループのルールを守りつつ、しかも自分らしくありたいと望む。

どんな状況になっても、自然にもたげてしまう、自分らしさ。

 

これを個性というのではないだろうか?

 

よく個性を伸ばす教育という言葉を聞く。

個性をその人が持っている能力のように捉えている。

 

私は、個性は伸ばすと言うより、認めるものだと感じている。

 

能力ではなく、自分で意識するしないに関わらず、表れる自分らしさだと思う。

 

個性は、否定されるべきものではない。個性は尊重されるべきだ。

 

 

ルールを守らず、自分勝手な行動をとることを個性的と捉える向きもあるが、

これも先ほどの考え方に当てはめると、個性ではない。

ただの我が儘だ。ルールを守ることと個性的とは同列ではない。

 

 

元々一人ひとり違うのだから、その違いを認め合おう。

個性を認め合おう。

 

認めた上で、その子が得意とするところにフォーカスを当て

それを伸ばしてあげるのが、教育なのだと私は考えている。

 

違いを認め、個性を認める。

 

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