衣裏の宝珠(えりのほうじゅ)
私はお寺で生まれて、お寺で育ちました。
今でも子どもの頃を覚えているのですけれども、祖母や祖父の法事に参加すると、そこでお経を読むわけです。
それを聞きながら「何でこれを読むんだろう。早く終わんないかな」と思っていました。
その頃は椅子ではなく正座ですから、足はしびれるし「何とかしてよ」というような感じだったのです。
よく「お坊さんって、子どもの頃から全て分かってるんじゃないですか?」と勘違いされるのですが、そのようなことはありません。
子どもの頃から全てを悟ることなどできません。
普通に生まれ育って、いろいろ勉強して学んでいくのであって、子どもの時から「天上天下唯我独尊」などとできるわけないのです。
お坊さんも、皆さんと同じように子どもの時は子どもなのです。
ですから、お経も分からないし「何なんだよ、これ」と思っていたわけです。
大学にも行ったのですけれども、やはりつかめないままでした。
本山に行って、分かったふりをしていたかもしれませんが、まだ分かっていませんでした。
私は今年63歳になるのですけれども、ようやく最近になって「あれ、お経って面白いかも。仏教って面白いじゃん」という気持ちになってきました。
その中でも「お経の王様」と言われているのが、いわゆる『法華経』、正式には『妙法蓮華経』と呼ばれているものです。
『妙法蓮華経』にもいろいろありまして、寿量品(じゅりょうほん)や神力品(じんりきほん)、安楽行品(あんらくぎょうほん)、もちろん観音経ありますけれども、その中に「たとえ話」というものもあるのです。
仏教にはたくさんの「たとえ話」があります。
例えば「毒矢のたとえ」や「3つの車のたとえ」などがあるのですけれども、その中から今回皆さんにお伝えしたいのは、「衣裏の宝珠(えりのほうじゅ)」というものです。
以前にも「誰もがみんな素晴らしい力を持っている。そのことを高らかに信じる」ということについてお話ししたことがありますが、「衣裏の宝珠」というのは、まさにそのことです。
子どもの頃に一緒に遊んでいた同級生がいました。
片方の人はあまり豊かではない生活、そしてもう片方の人は豊かな生活を送っていました。
この2人が大人になって会ったわけです。
豊かな生活をしていた人は、その地域の行政を司るような立場になっていました。
ところが、貧しい生活をしていた人は貧しい生活のままだったのです。
久しぶりに再会して旧交を温め、2人は貧しい生活をしている人の家に泊まりました。
その時に、豊かな生活をしている人は「このままでは、この人は苦しい生活のままになるかもしれない」と思って、朝になって出かける時に、まだ眠っているこの人の衣の裏に宝物を縫い付けてあげました。
一生何の苦労もなく生活することができるほどの価値がある、それほどの宝物を差しあげたのです。
それから数十年経って、またその2人が再会しました。
ところが、貧しかった人は以前と同じ格好をしていたのです。
そして「毎日の生活が苦しくて、食べるのもやっとなんだ。毎日苦しくて迷っているんだ」と言うのです。
それで「おまえ、何を言ってるんだ。あの時、俺が大切な宝物をあげたじゃないか」と言ってその衣を見たら、まだ付いていたそうです。
「ここにあるじゃないか。何でこれを使わなかったんだ。そうすれば、おまえは毎日を心豊かに生活できるようになったのに、なぜそれに気が付かないんだ」と言ったというお話です。
ここで言う、貧しく迷っている人は私たちのことです。
「そこに宝物があるよ」と教えてくれた人は如来、仏様、または菩薩と言ってもいいかもしれません。
そして宝物というのは仏性なのです。
「誰でも仏様という宝物を持っているけれども、気が付かないで生活しているから迷って苦しんでいる」というたとえ話なのです。
西田天香さんという人が始めた、一燈園という修養団体があります。
「あなたにも、あなたにも燈火がある、その素晴らしい燈火をしっかり大切にして生きていこう」というようなことで活動している団体です。
この一燈園は、一般の家庭に行って「すみません、お手洗いの掃除をさせてください」と言って、無償でトイレを掃除するというような修行で心を修養しようとしている団体なのです。
西田天香さんの高弟に三上和志さんという方がいらっしゃいました。
この方は第二次世界大戦の時にソビエトで捕虜になってしまいます。
シベリア抑留というのは相当厳しかったらしいのですが、ほかにも何人もが同じように抑留されていました。
ソビエト兵が日本兵を管理しているわけですが、ある日本兵は非常に大きな体で、きつい目つきをしていました。
それで、ソビエト兵から「何だ、その目つきは」と言われたのですが、それにもひるまずにいたら、そのまま連れていかれて帰ってこなかったそうです。
恐らく殺されてしまったのでしょう。
ところが、この三上さんという人は、一燈園で実践していたように「あなたの中にある燈火を、手を合わせて拝みます」と、管理しているソビエト兵にも手を合わせていたそうです。
「何をやってるんだ」と聞かれて、「あなたの中に光輝くものがある。私はそれに手を合わせているんです。私にもあるけれども、あなたにもあるんです」と答えました。
すると、そのロシア兵が面白がって毎日三上さんところにやってきて、三上さんも手を合わせる、そのようなことをやっていたそうです。
だんだん日本人が少なくなっていく中で、ある時、三上さんが呼び出されます。
「ああ、これで俺も終わりか。今までどんな人生だったんだろうな」と思ったそうです。
そうしたら「おまえはこれから病院送りにする」と言わたので、「ああ、俺は病院で毒殺されるのかな」と思ったら、日本に帰ってくることができました。
それから三上さんは、日本各地でお話をするという活動をしていました。
ある時、病院から「看護師さんや先生、患者さんも含めた、病院に関わるたくさんの人に講演をしてほしい」と頼まれたそうです。
お話が終わって、先生方のところへ戻ると「いや、実は1人どうしょうもない、手がつけられない男がいるんです。その男にも話をしてやってもらえませんか」と言われました。
それで17歳の少年のところに案内されたのですけれども、この少年はとにかく素行が悪く、いつも暴れていて、先生や看護師の言うことも聞かずに自暴自棄になっていたそうです。
しかも彼は感染症を患っていて、いつ亡くなるか分からないという状況でした。
三上さんが会おうとしても暴れて怒声を上げているということで、「これはどうしようもないな」と思って帰ろうとしたのですが、その少年の目を見ると、ものすごく寂しそうな目だったそうです。
それで「この子はもしかしたら寂しいのかもしれないな」と思って、「一晩、私をあの少年の部屋にいさせてください」と院長先生に頼んだのです。
彼は感染症ですし、何があるか分かりませんから「いや、そんな危険なことはできません」と言われました。
しかし「いや、彼は何か求めているような気がしたんです。どうしてもいさせてください」と、反対を押し切って一晩その部屋で過ごすことにしたそうです。
最初はその少年となかなか話が合わなかったのですけれども、いろいろと話を聞くうちに自分のことを少しずつ話し始めました。
お母さんは、今でいうアルバイトのような形でうどん屋で勤めていた、若い少女だったそうです。
そこにたまたま訪ねてきた大工の見習いと恋に落ちたのですけれども、その大工の見習いは妊娠したことが分かると逃げてしまいました。
さらに、お母さんはその少年を産んですぐに亡くなってしまいました。
しばらくはうどん屋で育てていたのですけれども、施設に預け、数年が経ってからうどん屋に戻ってきて働くことになりました。
ところが、食べるものはお店の食べ残し、寝るのもやっとということで、毎日苦しくて仕方がないので放浪の旅に出たのです。
いつも何かを盗んでは食べ、寝るのは神社やお寺の建物の下というような生活を送っていました。
それで結局病気になってしまって、この施設に入って重い感染症になったということを話してくれたそうです。
その間、三上さんはやせ細った少年の体をさすってあげて、「そうか、おまえもなかなか苦労してきたんだな」と言っていたら、だんだんその少年も心が打ち解けてきて、「おっさん、おっさん」と言うようになったのだそうです。
そうしたら食事が出てきました。
ところが、それが非常に質素で、ちょっとしたおかゆと漬物だけで、スープや味噌汁はなかったのです。
それで先生に「飲み物はないんですか?」と聞いたら、「いや、あいつはスープや味噌汁を飲むと全部吐いちゃうんです」と言われたそうです。
少年は、そのおかゆを少し食べたら「もういい」と残して、「ところでおっさん、おまえの夕飯はどうするんだよ?」と尋ねました。
「わしは無理やり頼んだんだから夕飯はないよ」と答えたら「俺の食べ残しがあるじゃないか」と言われました。
感染症の人の食べ残しを食べるということには、ものすごく危険が伴います。
しかし、彼は「これを食べろ」と言っているわけです。
「これほど食べるのに時間がかかった食べ方はなかった」というほど、大変だったそうです。
それでも三上さんは残りを全部食べました。
そうしたら、その少年は「おっさん、わしの食べ残しを食べたのはあんたで2人目だよ」と言いました。
もう1人は、少年が神社の建物の下で寝ていたら、やはり家で何かあったらしく逃げてきた女の子がいて、自分が抱えていたコッペパンを半分あげたそうです。
そして「おっさん、今日は俺に何か話しに来たんだろう?何か話してくれよ」と言うから、「おまえは今までいろいろなことがあったかもしれない。だけど、人っていうのは、生まれ育って、人に迷惑をかけちゃいけないということもあるかもしれないけれども、何かの形で人の役に立つようなことをする必要があるんだ」と言いました。
そうしたら「いや、おっさん、何を言っているんだ。俺はもう病気でいつ死ぬか分からないんだから、人の役に立つことなんかできないよ」と言ったそうです。
ですから「そんなことはないよ。おまえはいつもそうやって暴れているけれども、お前が静かに先生の言うことを聞いたり、看護師さんの言うことを聞いたりするということが、実は人の役に立つことなんだ」と言ったら、「ああ、そうか。分かった。俺は約束する。もう俺は腹を立てたり、怒ったり、大きな声を出したりしない。人の役に立てるように頑張る。これからあんたもいろんな街でいろんな話をするだろう。そうしたら、多くの人たちに言ってほしい。俺は親から小言なんて言ってもらったことがない。親から小言を言われたり、叱られたりするということがどれだけ贅沢なことなんだということをみんなに伝えてくれ」と言いました。
それで三上さんは「そうか、分かった。俺はそれをみんなに伝えていくよ」という約束をしたそうです。
その少年の名前は津田卯一というのですが、彼は「おっさん、おっさん」と言って、部屋から出ていく三上さんを送ったのだそうです。
そして三上さんが院長室に戻ると、ごちそうが並んでいました。
三上さんはそれを見て、「いや、院長先生、私はとてもこんなごちそうを食べることはできません。ご飯とお味噌汁だけください」と言いました。
しばらくすると、若い担当の先生が院長室に飛び込んできました。
そして「院長先生、大変です。卯一が今死にました。今日の卯一は穏やかで、これまでとは全く様子が違いました。みんなに静かに、心を穏やかに対応してくれました。部屋を出る時に振り返ったら、手を合わせて静かに息を引き取っていました」と言いました。
これが「衣裏の宝珠」です。
どんな人も宝物があるのに、そのことに気が付かないのです。
本当は誰にでも「衣裏の宝珠」はあるのですが、それがいつどうやって輝くかのかは分かりません。
そして三上さんは、津田卯一との約束を守って、日本中たくさんの場所でこのお話をし続けていったそうです。
私は、この話を聞いてたくさんのことを学んだ気がします。
自分もそうでしたが、ある年齢では親や世間に対して反発をするのは当たり前なのです。
しかし「そういうことができること自体がとてつもない宝物なんだ」ということを教えてもらったような気がします。
今回は「衣裏の宝珠」についてお話をさせていただきました。
あなたの心の中にも大きな宝物、光り輝く宝物があるのです。