正法眼蔵 道心って何が書いてあるの?

『正法眼蔵』は、道元様がお示しいただいた大変長い書物ですけれども、その中に『道心』という巻があります。

道元様が道と言っている時は、真理や真実のことを言う時なのです。

そこには、道心というものをどういうふうに持てばいいのかということが書いてあるのです。

 

この中で特に面白いのは、「仏法僧の三宝を敬いなさい。そしてそれをいつも口に唱えましょう」と言っている部分です。

「ねても、さめても、三宝をとなへたてまつるべし」、つまり寝ても覚めても「南無帰依仏(なむきえぶつ)、南無帰依法(なむきえほう)、南無帰依僧(なむきえそう)」の三宝を唱えなさいということです。

 

そして「たとひこの生をすてて、いまだのちの生にうまれざらん、そのあひだ、中有(ちゅうう)といふことあり、そのいのち七日なる、そのあひだも、つねにこえやまず、三宝をとなへたてまつらんとおもふべし」と続きます。

中有(ちゅうう)というのは、亡くなってから次の生に至るまでの間の状態のことです。

つまり、「自分の今の一生が終わった後も、後生に生まれた時も、その間も常に声を出して三宝を唱え続けなさい」と言っているのです。

 

道元様は、「亡くなったらこういうふうにしなさい」ということを示しているのです。

「亡くなっても、ただひたすら迷わずに南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と唱え続けていなさい」と言っているわけです。

 

そして「すでに中有をすぎて、父母のほとりにちかづかんときも、あひかまへてあひかまへて、正知ありて託胎せん。処胎蔵にありても」、要するに49日が終わって、今度は新しいお父さんお母さんのところに近づいている、つまり生まれ変わるということです。

 

仏教では、ただ父と母が出会っただけでは生まれません。

その間に仏の力が加わって、初めて生まれてくるというふうに考えています。

ですから、「新しいお父さんお母さんの元に近づいて、そしてそこに仏の力が加わって新しい命が生まれた時も三宝を唱えなさい」と書いてあるわけです。

新しいお父さんお母さんから生まれた時も三宝を唱えなさいということです。

「『おぎゃあ』ではなく『南無帰依仏』と言って生まれてきなさい、それを怠ってはダメだ」と書いてあるのです。

 

やはり、人間の命というものに対する捉え方が違います。

「私」という、この生まれた命が命ではないのです。

もっと長い命があって、その命はまた生まれ変わって続いていくという、そういうような考え方なのです。

「そういう時でも常に南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧と唱え奉りなさい」と言っているのが、このお経なのです。

 

さらに「またこの生のをはるときは、二つの眼(まなこ)たちまちにくらくなるべし」、つまり私の肉体としての命がなくなる時には、二つの眼が一瞬にして真っ暗になるので、その時は「これで私の肉体としての命が終わりなんだ」ということを自覚しなさいということです。

 

そして「はげみて南無帰依仏ととなへたてまつるべし」、つまりこれは亡くなる時の心構えです。

心穏やかに逝きたいなら、「暗くなったなと思ったら、手を合わせることはできなくても『南無帰依仏』と言いなさい。そうすれば、あちらへいけるよ」というわけです。

 

目の前が真っ暗になって「ああ、これが私の命の終わりだな」という時に「南無帰依仏」と言ったら、あらゆるところから仏様がたくさん現れて、あなたに対して哀れみを注いで、たとえ生きている時にどのような罪を犯したとしても、ものすごい罪悪を犯したとしても救ってくれると書いてあるのです。

 

それが「悪趣におもむくべきつみも、転じて天上にむまれ、仏前にうまれて、ほとけををがみたてまつり、仏のとかせたまふのりをきくなり」ということです。

亡くなる時に「南無帰依仏」と唱えれば、仏様の前に行って仏様の教えを聞くことができるのです。

 

「眼の前にやみのきたらんよりのちは、たゆまずはげみて三帰依となへたてまつること」、目の前が真っ暗になった時は、体が動かなくても心を励まして「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と脳の中で繰り返し唱えてください。

 

「生々世々をつくしてとなへたてまつるべし。仏果菩提にいたらんまでも、おこたらざるべし」、自分の功徳が熟して仏になったとしても、ずっと怠らずに「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えることが大事です。

 

これがあらゆる仏様、観音様をはじめ、お地蔵様、あらゆる菩薩様が修行してきた道なのです。

「これを深く法をさとるとも云ふ」と書いてあります。

「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と、生まれた時から亡くなる時までいつでも唱え続けているということが、仏法を悟ったということだとふうに書いてあるのです。

 

仏教のあらゆる宗派や教えに共通しているのが三宝なのです。

「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えるということは、すべての仏教徒が行っている、最も基本的なことです。

つまり「それが身に着けば、あなたは仏教徒ですよ。これが仏教を信じるということだし、仏様の道に通ずることですよ」ということを道元様が言っているのです。

 

これは私が言っているのではなく、道元様が言っているのです。

もちろん仏教には難しい側面もあるのですけれども、何をすればいいのかというと、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」を唱えることに集約されるわけです。

「亡くなった時も、亡くなった後も、生まれてくる時も唱えなさい」と言うのですから、これは強烈です。

ですから私は、生死(しょうじ)の巻とこの道心の巻をお通夜に読むのです。

 

道心の巻を生前に知っていれば、その人は「南無帰依仏」と唱えたかもしれませんが、知らずに亡くなったとしても、道心の巻でもって「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えれば大丈夫だということを伝えているのです。

これが、私が道心の巻に出会ってからお通夜で心掛けているところです。

そういう意味では、今はお通夜をしないお勤めが多いのですけれども、やはりお通夜は大事なのです。

 

私が總持寺で修行をしている時、おそばについた桑原老師という方からすごくいろいろな影響を受けました。

その方が言っていたことで一番心に残ってるのは、「おまえね、亡くなった人に法を説くんだぞ。亡くなった人に法を説くんだから、これほど命がけなものはないんだ」という言葉です。

これを強烈に覚えています。

毎回そうするのは難しいのですが、、そういうような心構えで臨んでいます。

 

ですから皆さん、お経から学ぶことはたくさんあるのですけれども、亡くなる時の心構えまで教えてくれているということが分かりましたから、安心してください。

「死ぬのは怖い」と言っている方がいますけれども、「南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧」と唱えれば大丈夫だということをお示しいただいてるので、あとはそれを信じるか信じないか、それはあなた次第ということなのです。

もちろん、私は信じています。

 

亡くなってからこのお経を聞くのではなくて、亡くなる前にこのお経を知って、仏教徒として最も大切な帰依三宝の功徳をぜひ味わっていただきたいのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です