人は他人しか幸せにできない

自分以外の人を幸せにするために、

自分が何をできるかを考えて行動してみる。

自分のことをまず手放そう。

 

「人は他人しか幸せにできない」

 

以前出会った西尾さんから学びました。

お釈迦様も同じことを言っています。

 

我への執着を離れ、まず与える。

 

布施

愛語

利行

同事

 

自分ではなく自分以外の人のために動く。

人と逢う

曹洞宗の開祖道元禅師は、教えを求めて人に逢いに行きました。

日本では、師と呼べる人と出逢うことがありませんでした。

ついに、中国に渡ってまで人との出逢いを求めました。

ようやく、師と仰ぐ人と出逢いました。

 

「これ、人と逢うなり」

 

という言葉を残しています。

人との出逢いは、待っているだけでは逢えません。

逢いに行くのです。

雨でも石に穴を開ける

奈良時代の僧、明詮法師は、10歳の時、奈良の元興寺に入りました。

ところが、意欲はあるのですが、なかなか理解ができず、先輩僧からは馬鹿にされていました。

さらに、明詮は、飽きっぽいため、辛い修行も最後まで辛抱できそうもありません。

気持ちが萎えた明詮は、

「こんな気持ちでは、佛道修行を達成することなどできそうもない。父母には申し訳ないが、続けられそうにないな」と思い、

お寺を密かに抜け出し、隠れていました。

 

そんな折、雨が振り出しのです。

どこにも動くことができず、木の下でじっとしていました。

雨だれが石の上に落ちるのが、意識することなく目に入りました。

ぼんやり眺めていた少年明詮は、ある事に気づきました。

 

雨が落ちている所に、穴があいていたのです。

 

「あんなに硬い石でも、水は、穴を開けることが出来る。

ずっと長い間、落ち続けていたからだ。

佛道修行を全うするという夢を抱いて、お寺に入ったじゃないか。

自分が、なかなか理解が出来ないのは、やり続けることが足りないからだ。

精進が足りないだけだ。

雨が、石に穴を開けることが出来るように、

一つのことをずっとやり続けていれば、

どんなに時間が掛かったとしても、

やり通すことが出来るに違いない。」

 

少年明詮は、そう、心に強く刻みました。

そして、逃げ出すことをやめ、寺に戻り諦めることなく、修行を重ねたのです。

 

「これを叶える」と決めた夢は、

けっして消えてなくなったりすることはありません。

途中であきらめたり逃げたりしてしまうのは、あなたのほうなのです。

迷いの時には

どんな立場の人でも迷いはあります。

迷っていることを恥じてしまう自分がいますが、そうでは、ないようです。

 

「迷を大悟するは、諸仏なり。悟を大迷するは、衆生なり。」

 

道元禅師の言葉です。

迷っている時には、ひたすら迷っていいのです。

迷いと一体となってしまうのが、仏なのです。

悟りを追い求めて、迷うのが、私たち凡夫なのです。

坐禅の時には、坐禅をする。

食事の時には、食事をする。

仕事の時には、仕事をする。

迷いの時には、ただ迷う。

すると不思議なんですね。

すーっと楽になる時が、必ず来るんです。

さらに一歩進む

「百尺竿頭進一歩」(ひゃくしゃくかんとうにいっぽをすすむ)があります。

百尺とは、長さ。およそ30mほどの長さです。

竿は、物干しなどに使う、さおです。30mほどの竿の先にいても、さらに一歩を進めよ、ということです。

具体的な30mの竿を言っているのではなく、百尺ほどの境地まで達しているが、そこで終わりではなくさらに精進して、先へ進めという修行の戒めを表しています。

ああ、やり終えた。これで、満足だ。

と思ったら、その先にさらに進むことを意識しないとなぜか、人は、退歩を始めてしまうのです。

もちろん休憩も必要です。

いろいろが調ったらさらに前に進みましょう。

次のステージが待っています。

どこまで行っても、その先のステージがあるんですね。

人に伝える、人の見本になるというステージも待っています。

もうこれでいい、ということは、ないのかもしれません。

死ぬまで成長です。

明珠在掌(みょうじゅざいしょう)

明珠在掌(みょうじゅざいしょう)という言葉があります

明珠とは仏性をいいます

仏性とは、だれもが生まれながらに持っている仏の心です

仏性は、外にあるのではなく

手のひらにすでにあるのだということを

この言葉は言っています

宝物を探しに外ばかりに目を向けてしまいます

ですが、すでに誰もが持っているのです

自分が持っている宝物に気づいて

磨いていくことが大切なのだけれど

どうしても外に目が向いてしまいます

禅の教えを説いた「碧巌録」に納められています

足もとを見つめる

外に、ばかり目が行き、自分の足元を観ないことがあります。

問題の解決策は、自分が持っているのにも関わらず、

外ばかり眼が生き、遠回りしてしまいます。

まずは、自分をしっかり見つめる。

足元を照らし続けることです。

脚下を照顧せよ。

長野県円福寺のご住職で「おっしゃん」と呼ばれ親しまれていたお坊様がいらっしゃいました。

藤本幸邦老師です。

難しいことを解かりやすくお伝えくださる方です。

脚下照顧を解かりやすくした詩を残してくださいました。

「はきものをそろえる。

はきものをそろえると心もそろう。

心がそろうとはきものもそろう。

ぬぐときに、そろえておくとはくときに、心がみだれない。

だれかが、みだしておいたら、だまって、そろえておいてあげよう。

そうすればきっと、世界中の人の心もそろうでしょう」

拈華微笑

禅の言葉に

「拈華微笑(ねんげみしょう)」

という言葉があります。

ブッダが、法を説くため、

弟子たちを霊鷲山に集めました。

ブッダは、一輪の花を持ってただ立っていました。

何も語りません。

弟子たちは、何だ?どうしたんだ?と

顔を見合わせています。

一人マカ・カショウだけは、

そっと微笑み返しました。

それを確認したブッダは、言いました。

「私が悟った真実の教えは、今、マカカショウに伝わった。」

マカカショウは、こうしてブッダの高弟となったのです。

ブッダは、何も語らずに

もっとも大切なことをマカカショウに伝えたのです。

大切なことは、語らなくても伝わることがあります。

受け止めることができる人になりたいものです。

放てば手にみてり

「放てば手にみてり」

 

道元禅師もお示しになっています。

過去にしがみついていると手でつかむ事ができません。

自らのステージが変わるときは、

まず、手放すことです。

 

手放してしまえば、天地一杯の宇宙に満たされます。

脚下を照顧せよ

脚下を照顧せよ。

有名な禅の言葉です。

脚下照顧といいます。

足元を整えることをいいます。

具体的には、履物をそろえることです。

しかし、もっと深く自分自信を照らすことでもあります。

宝物のありかと遠くの山に見つけに行ってしまいますが、本当の宝物は、自分自身の足元にあるものです。

 

宝物という幸せの種は自分の足元にあるのです。